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ポーランドのレーベル


ポーランド作曲家によるヴァイオリン音楽を探し、選曲するのに助か
るのはやはり音源である。

ポーランドのレーベルについては海外のサイトからは思うように情報
を集められなかった。あるにはあっても、ポーランド語しか見ること
の出来ないサイトも多い。

国内のCDショップ「カデンツァ」などに詳細なページを見つけたので
紹介させていただきたいと思う。

「カデンツァ」さんは私のお気に入りのサイトでもある。膨大なカタ
ログの中からポーランド・レーベルだけを開くやり方がちょっと大変
なので、ここで検索のお役に立てれば幸いです。



POLSKIE RADIO(ポーランド放送)
現地組織の改編により終息とあるが、国立フレデリック・ショパン研
究所が自営レーベルを出したことによるものか・・。

POLSKIE NAGRANIA(MUZA)
国営レコード会社時代から継続しているポーランドの老舗レーベル。

PROMUSICA CAMERATA
ポーランドの教会音楽の扱いが多い。

BEARTON
1995年創設。ヤン・エキエル校訂のショパン「ナショナル・エディシ
ョン」の再録音に取り組んでいる。

CD ACCORD
現在ポーランドでもっとも注目されているレーベル。

DUX
ショパン・コンクールやヴァイオリンのヴィエニアフスキ・コンクール
のライブCDで有名。

MUSICON
1991年創設。クリスマスキャロル、修道院の音楽、古楽など価値の高い
ポーランド音楽を集めている。

ACTE PREALABLE
1998年創設。ポーランドで最も急成長しているレーベル。

SELENE
日本では全く知られていないポーランドのピアニストが網羅されている点
でこれほど充実したレーベルは他にない。

国立フレデリック・ショパン研究所
The Complete Works of Fryderyk Chopin on historical instruments
をリリース中。

__________________________________

今後、この中からヴァイオリンとピアノ音楽の掘り出し物が見つかった
ときはご報告します。





ノクターン Op.9-2(サラサーテ編曲)





ショパン:ノクターン 変ホ長調 Op.9-2(パブロ・サラサーテ編曲)


ブロニスワフ・フーベルマン Bronisław Huberman(1882-1947)は
ポーランドのヴァイオリニスト。ヨーゼフ・ヨアヒムの弟子。

同じポーランドのヴァイオリニスト、ヘンリク・シェリングの師。
また、ピアニストのアルトゥール・ルービンシュタインの親友だったと
いう。
この映像は曲に合っていない。伴奏者も不明(残念!)
このパブロ・サラサーテ Pablo Sarasate 編曲はPWMから楽譜が出てい
る。





アルトゥール・ルービンシュタインの演奏。(1965年)
ルービンシュタインの自伝「華麗なる旋律」17ページに、ルービンシ
ュタインが初めてフーベルマンの演奏を聴いたときのことが書いてある。
(ルービンシュタインが5歳の時の出来事である。)

「そのころ、ある天才少年がこの町(ウッジ)に来て演奏会を開き、
大成功をおさめた。これは、当時10歳だったヴァイオリニストのブロ
ニスワフ・フーベルマンである。私が彼の演奏を喜んだので、両親は彼
を家に招待した。家で私たちは互いに演奏し合った。彼は私には魅力
的だった。彼が死ぬまで、私たちはずっと友達だった。」


______________________________

二人のレコーディングを発見出来れば良いのですが・・。

ルービンシュタインはフーベルマンの弟子のシェリングとは
レコーディングしています。シェリングはルービンシュタインに
見出されてデビューしたヴァイオリニストでもあるのです。

フーベルマンについてはポーランドのヴァイオリニストの
カテゴリで、また改めて書きたいと思います。

私の好きなルービンシュタインの親友に多くのヴァイオリニスト
がいたことをうれしく思います。





国立フレデリック・ショパン研究所 NIFC


ショパン協会、と一言では呼べない団体名を整理したい。
前回の「ショパン協会」の歴史の話からのまとめとして。。



国立フレデリック・ショパン研究所 NIFC
The National Fryderyk Chopin Institute
Narodowy Instytut Fryderyka Chopina

2005年6月9日、ショパン協会 The Fryderyk Chopin Society
のそれまでの仕事を引き継いで国の機関となり、元ショバン協会
のスタッフのほとんどが雇用される。ショパン・コンクールは今
年の開催(2010年)より国立フレデリク・ショパン研究所 NIFC
の主催となる。その他、次のような活動をしている。

・ショパンの生涯と作品についての調査とその普及
・出版
・コンサート、協議会などの企画運営
・ショパンの遺産を保護する中でその研究を協力して行うこと
・ショパンに関する資料やミュージアムのオブジェクトの収集
・ショパンのイメージや名前が宣伝目的で使用されることのない
 よう監視すること
・ショパン・インフォメーションセンター(Internet)の運営



ショパン協会 TIFC
The Fryderyk Chopin Society
Towarzystwo im. Fryderyka Chopina

1934年に設立。2005年に国立フレデリック・ショパン研究所
に移行。(ホームページは残されている。)




フレデリック・ショパン協会国際連盟
The International Federation of Chopin Societies
Międzynarodowa Federacja Towarzystw Chopinowskich

世界各地に支部を持つ。「日本ショパン協会」はここの会員として
の機関である。この連盟に含まれる「ポーランド・ショパン協会」
Frederic Chopin Society in Warsawは上記のショパン協会 TIFC
とは別機関(ホームページも別)で少々紛らわしい。「日本ショパ
ン協会」のリンク集には上記のNIFC(TIFC)の記載がないため、
「国立フレデリック・ショパン研究所」のウェブサイトは日本語
検索ではヒットしない。(私もそのために混乱してました!)


日本ショパン協会 The Frederic Chopin Society of Japan
ポーランド・ショパン協会 Frederic Chopin Society in Warsaw

フレデリック・ショパン協会国際連盟の会員(団体)一覧
 会長名や所在地、ウェブサイトがまとめられている。

______________________________

国立フレデリック・ショパン研究所 NIFC のウェブサイトには
一人の作曲家を扱ったサイトとしては他に類を見ない詳細な
情報が集められています。「ショパン協会」からの歴史を引き
継ぎ、よりわかりやすく、より美しく生まれ変わったショパン
のインフォメーションセンターであり、もっと知られるべきだ
と思います。本当に良く出来ています!

次回からはこの新しいウェブサイトの探検をしてみたいと思い
ます。



バツェヴィチ Bacewicz


     284_rd.jpg


グラジナ・バツェヴィチ(1909-69)
Grażyna Bacewicz


2009年に生誕100年と没後40年で話題になった作曲家、ヴァイオリ
ニスト、ピアニスト。
ピアニスト、クリスティアン・ツィメルマンがその年来日し、バツェ
ヴィチのピアノ・ソナタ第2番を演奏。
バツェヴィチ作品集(ピアノ・ソナタ第2番の他、室内楽も含むCD)
も発売された。

バツェヴィチはポーランド音楽の歴史において、最も興味深い音楽家
の一人(・・それはまるでショパンのように by ワルシャワの音楽学者
Maja Trochimczyk)。

父はリトアニア人、母はポーランド人であったが、バツェヴィチはポー
ランド人であることを選んだ。
音楽の手ほどきは父から受けた。ヴァイオリン、ピアノ、音楽理論を
5歳から学び始める。彼女は神童だった。7歳でコンサートデビュー。
13歳で最初の作品 “Preludes for Piano" を作曲した。
ワルシャワ音楽院(現ショパン・アカデミー)に入学し、ヴァイオリン
とピアノを専攻、作曲も学ぶ。
19歳から1年半、ワルシャワ大学にて哲学の勉強もした。
23歳の時、最優秀にてワルシャワ音楽院を卒業。

その後、パデレフスキ奨学金を得、当時ワルシャワ音楽院の教授だった
カロル・シマノフスキの助言により、パリに留学する。
作曲を ナディア・ブーランジェ Nadia Boulanger 、ヴァイオリンを
カール・フレッシュ Carl Flesch ほかに師事した。

バツェヴィチはヴァイオリニストとして、作曲家として、数々のコン
サートやフェスティバルに参加。
またグジェゴシュ・フィテルベルク Grzegorz Fitelbergの指揮する
ポーランド放送管弦楽団 ThePolish Radio Orchestra の首席奏者と
しても活躍。オーケストラではバツェヴィチの作品が演奏される機会
もあったという。

27歳で結婚、33歳(1942年)に長女が誕生。戦後、生まれ故郷である
ウッジの音楽大学の教授に就任。ヨーロッパ各地での演奏活動を再開、
レコーディングも積極的に行う。

ヴァイオリニストとしてだけでなく、優れたピアニストでもあった彼女
は、ピアノ・ソナタ第2番(1953)を初演、その後もしばしばこの曲
を演奏したそうだ。

1954年、45歳の時、バツェヴィチは交通事故による深刻な怪我を負い、
以後、作曲に専念することとなる。数々のコンテストで多くの作品が
栄誉ある表彰を受け「バツェヴィチはポーランドにおいて、女流作曲家
への道を開いた・・」などと高い評価を得た。

以上に関する参照サイト:Polish Music Center内のバツェヴィチのページ


ヴァイオリンとピアノによる作品は、バツェヴィチ自身がどちらの楽器
にもプロフェッショナルであったことから、2つの楽器の扱いが非常に
バランスよく、充実している。
中でも5曲のヴァイオリン・ソナタはどれも傑作であるし、ポーランドの
伝統舞曲を取り入れた小品も親しみやすい。
ヴァイオリン協奏曲は7曲書いており、第1番は28歳の時の作品、第7番
は亡くなる4年前の作品で、曲想は時代の流れとともに大きく変化してい
ったことがわかる。晩年の作品は非常に意欲的、かつ実験的な現代曲と
なっている。









バツェヴィチ: ヴァイオリン・ソナタ 第2番(1946)第1楽章
Sonata no. 2 for violin & piano, I. Allegro.

Piotr Pławner (violin)
Ewa Kupiec (piano)

 

____________________________

ヴァイオリンとピアノ演奏の両方に優れていたバツェヴィチは
ポーランド音楽~Violin & Piano のこのブログの主役となって
頂きたい人物です。
もっと知られるべきだと思うので、情報をこれからも集めたい
と思っています。

八ヶ岳の演奏でも四季折々、ヴァイオリンとピアノのバツェヴ
ィチ作品を必ず取り上げていきます。

春:コンチェルティーノ、オベレク 第1番
夏:ソナタ・ダ・カメラ(ヴァイオリン・ソナタ 第1番)
秋:3つの舞曲
クリスマス:ステンドグラス



ショパン協会 その2


(ショパン協会 その1からの続き)

ショパン協会
The Fryderyk Chopin Society
1899年に設立したワルシャワ
音楽協会のショパン・セクションとしてその活動を続け、国際的にも
影響力をもってきた。

1934年、政治家、音楽家、出版社のあるグループがショパンの研
究所設立の先駆けとなり、そのグループには、エミル・ムウィナルスキ
Emil Młynarski(ヴァイオリニスト)、カロル・シマノフスキ Karol
Szymanowski(作曲家)らがいた。研究所はその後、自筆譜、本、
印刷譜、レコードや写真の収集を始めるが、これはのちのミュージアム、
図書館などの基盤となる。Chopin magazine の出版も手がけ、1937
年にはショパン全集出版に向けて動き始めた。

第二次世界大戦により研究所の活動は中断するが、1945年に再開。

1950年に研究所は
The Fryderyk Chopin Society(ショパン協会)と命名される。

1953年から2005年まで、ショパン協会とそのミュージ
アム、図書館、レコード・ライブラリ、フォト・ライブラリは
Pałac Ostrogskich オストログスキ宮殿 を拠点とする。


同時に

ショパンの生家 Żelazowa Wola ジェラゾヴァ・ヴォラ
ショパン家のサロン Pałacu Krasińskich クラシンスキ宮殿

はショパン協会が管理運営することになる。
(参照:ショパン・ミュージアム
また、調査と出版、コンサート企画の活動もしていく。

1949年から61年にかけて、ショパン協会はクラクフの楽譜出版社PWM
と連携して「ショパン全集」を出版。いわゆる “パデレフスキ版”。

1967年から92年にかけては、ショパン協会とPWMが J.エキエル編集に
よる「ショパン ナショナル・エディション」の最初の9冊を出版した。

ショパン没後150年の年(1999年)には、ショパンの自筆譜ファクシミ
リ10冊が出版される。(2000年にかけて。)

その他、ショパン・コンクール開催も手がけるなど、ショパン協会には
数多くの業績がある。



2005年、文部省やナショナルヘリテージ(国家基金)も加わった
協約書への署名により、それまでショパン協会が取り仕切ってきた大部
分の活動を

国立フレデリック・ショパン研究所
The National Fryderyk Chopin Institute
が引き継ぐことになった。

以上の引用先:The Fryderyk Chopin Society のHistory のページ

________________________________

今日は

ショパン協会国立フレデリク・ショパン研究所への歴史

をまとめました。協会、研究所、連盟・・etc. ショパンに関する
団体はいろいろあって紛らわしいので、次回はそれを整理したい
と思っています。





八ヶ岳高原音楽堂 四季の音楽会「春」


明日から再び八ヶ岳。(これまでのコンサートはこちら


6月10日(月)16:30開演 八ヶ岳高原音楽堂
ヴァイオリン:秋葉美果 ピアノ&トーク:吉岡裕子(=ポプリ)


《ポーランドの魂~マズルカ&ポロネーズ》

(ピアノ独奏)
ショパン:ワルツ Op.64-1 “小犬”
_________________

パデレフスキ:メヌエット ト長調 Op.14-1(クライスラー編曲)
ザレンブスキ:子守歌 Op.22
バツェヴィチ:コンチェルティーノ
バツェヴィチ:2つのオベレク より オベレク第1番
__________________________________
(ピアノ独奏)

ボンダジェフスカ:マズルカ
ショパン:マズルカ Op.30-1、Op.56-2、Op.59-3
ショパン:ポロネーズ Op.53 “英雄”
___________________________________

ヴィエニアフスキ:クヤヴィアク イ短調(作品番号なし)
ヴィエニアフスキ:レゲンダ(伝説曲)Op.17
ヴィエニアフスキ:モスクワの思い出 Op.6
ヴィエニアフスキ:ヴァイオリン協奏曲 第2番 Op.22より 第2楽章
ヴィエニアフスキ:華麗なるポロネーズ Op.4

ショパン協会 その1


覗きに行けば行くほど、良く出来てるな~とただただ感心する
最近の私のお気に入りホームページ
The Fryderyk Chopin Institute

2001年に設立したとあるから、ショパンイヤーに向けて約10年間、
着々と構築してきたのかな~となどと勝手に思いながらも、疑問が
わいてきた。

Institute という英語は「協会」とも訳せるから、この機関は良く聞
く「ショパン協会」のことかなと思いつつ、今までちゃんと調べて
いなかった。
「日本ショパン協会」はここと連携しているのかと思ったら、関係
ないようだ。


調査の結果、「ショパン協会」とは
The Fryderyk Chopin Society のことだった!!

The Fryderyk Chopin Institute の方は「ショパン“研究所”」と訳
されていた。

それぞれのホームページ内の紹介によると、上記2つはいずれも
ワルシャワのなんと!同じ所在地にある。
一体どういうことだろうか?


(続きはこちら)



パガニーニ × リピンスキ


パガニーニ Niccolò Paganini(1782-1840)

paganini_chair.jpg イタリアのヴァイオリンの巨匠




リピンスキ Karol Józef Lipiński(1790-1861)
225px-Karol_Lipi?ski.PNG


「パガニーニとリピンスキはライバルだった。」と以前に書いた。
ポーランドのヴィルトゥオーソ・ヴァイオリニスト、リピンスキは1818年、
イタリアのミラノにパガニーニを訪ねた。ミラノで二人はコンチェルトを演
奏。パガニーニは “La Carnaval de Venise Op.10(ヴェニスの謝肉祭の主
題による変奏曲)” をリピンスキに献呈、リピンスキはそれに応えて “Three
Caprices for Violin” をパガニーニに献呈した。

パガニーニとリピンスキはワルシャワで1829年の同じ時期にコンサートを
行っている。手元の資料によると、パガニーニの5月~7月にかけての10回
以上のコンサート・シリーズにリピンスキも加わるように、6月に演奏して
いる。
当時のワルシャワの聴衆は耳が肥えており、必ずしも同郷の士をひいきする
とは限らなかったようで、ポーランド出身のリピンスキはパガニーニの前に
敗北を喫した状況となってしまったようだ。
19歳だったショパンもパガニーニに傾倒、パガニーニ作曲の“La Carnaval
de Venise Op.10” を用いた “Souvenir de Paganini(パガニーニの思い
出)” という作品を同年1829年に残している。(出版は1881年)





ショパン: “Souvenir de Paganini(パガニーニの思い出)”

 イタリアのピアニスト、Sandro Russo による演奏。


__________________________________

その後パガニーニが「最も偉大なヴァイオリニストは私で、リピンスキは
2番目だ」と発言したことで、二人の友情は壊れてしまった。

面白いことに、リピンスキは唯一のパガニーニ・ライバルとして名声を
得ていくことになる。1835年~36年にかけての演奏旅行中にシューマン
と会い、リピンスキの演奏に感銘を受けたシューマンは、彼にかの有名な
ピアノ曲の傑作 “Carnaval Op.9(謝肉祭)” を献呈している。
パガニーニの “La Carnaval de Venise”、ショパンの “パガニーニの思い
出” を知っていて書いたのだろうか。

ドレスデンでは、フランツ・リストとジョイント・リサイタルを行って
おり、リストのピアノでベートーヴェンの “クロイツェル・ソナタ” を
演奏したという。





“La Carnaval de Venise Op.10(ヴェニスの謝肉祭の主題による変奏曲)”

ヴァイオリン:Sándor Lakatos(ハンガリー)
伴奏:ハンガリージプシー・バンド

このヴェニスの謝肉祭のメロディはショパンのみならず、多くの
作曲家が変奏曲に用いている。




シューマンがヴァイオリンとピアノのために書いたというか、伴奏をつけた
パガニーニの曲(原曲は無伴奏)がある。




パガニーニ:カプリス No.24(シューマン編ピアノ伴奏付/アウアー版)
Paganini Caprice No.24 Auer Edition with Schumann accompaniment

ヴァイオリン:Jascha Heifetz
ピアノ:Emanuel Bay




ヴィエニアフスキ Wieniawski


ヘンリク・ヴィエニアフスキ(1835-80)
は当時、ショパンより有名だったという。
パガニーニと並び称される、ポーランドの巨匠ヴァイオリニスト
である。





1848年、ヴィエニアフスキ13歳の時、パリのサロンにて当時
最も有名な2人のポーランド人に会う。
ポーランドの国民的詩人、ミツキエヴィチ Adam Mickiewicz
(1798-1855)とショパン(1810-49)だ。

ヴィエニアフスキが会ったショパンは38歳(死の前年)のショ
パンだった。

ヴィエニアフスキの母はプロのピアニストで、息子のヴァイオリ
ンの才能をのばすためレッスンに力を入れた。8歳でパリ音楽院
に入学、13歳で演奏家としてデビューした。その後、生涯に渡り
多忙な演奏活動を行う。演奏旅行の途中、他に次のような人に出
会う。

アンリ・ヴュータン(ベルギーのヴァイオリニスト)
カロル・リピンスキ
ロベルト・シューマン
アントン・ルービンシテイン(ロシアのピアニスト)


演奏活動が忙しかったため作品は多くないが、生涯を通じて
書き続けたのはマズルカとポロネーズだった。ショパンのように
若い頃(幼い頃)に祖国ポーランドを離れ、祖国への思いが
強かったのだろう。

ヴィエニアフスキのマズルカはどれも傑作で、もっと知られて
欲しい。
マズルカには主に3種類の踊りがある。
「クヤヴィアク」「オベレク(オベルタス)」「マズール」
どれも4分の3拍子だが、リズムの特徴や速度や曲想が異なる。
ヴィエニアフスキはこれらを曲のタイトルにそのまま使ったり、
マズルカの2つ以上の要素を取り入れたマズルカを書いたりした。






ヴィエニアフスキ:クヤヴィアク(作品番号なし)

 ヴィエニアフスキ18歳の時の作品。
  
 ヴァイオリン:ヤノフスキ Piotr Janowski (1951-2008)
  ヴィエニアフスキ国際ヴァイオリン・コンクールに入賞したポーランドのヴァイオリニスト






ヴィエニアフスキ:オベルタス Op.19-1

 ヴィエニアフスキ25歳の時の作品。
 ヴァイオリン:ヤノフスキ Piotr Janowski (1951-2008)


ショパン・ミュージアム


ポーランド音楽をいろいろ調べていると、ショパンにももっと近づ
きたいという気持ちが高まってくる。ポーランドのサイトやポーラ
ンドに関する英語の書物などを見ていると、ポーランドではショパ
ンイヤーに向けて、様々な準備がされてきたことがわかってきた。
ポーランドとショパンについて、私の中でよく認識出来ていなかっ
たことがいくつかあり、そうした内容は日本のサイトではあまり系
統立ててまとめられていないので、この場を借りて少し整理したい
と思っている。
「ショパンとポーランド」のカテゴリで順に書いていこうと思う。


ワルシャワではChopin Musium(ショパン博物館)として3カ所の
建物が指定されているようだ。


Pałac Ostrogskich オストログスキ宮殿

ショパン博物館、というとこのオストログスキ宮殿のことを指すと
思っていた。ショパン音楽院の近くにあり、国立のショパン研究所
が入っている。2010年ショパンイヤーに向けて全館改装が行われて
再オープンし、今、イヴェントで盛り上がっているようだ。(この
ことについてはまた改めて。)
私が2005年8月に訪れた時は、秋のショパンコンクール開催前で
リニューアル中。中に入ることが出来ずにがっかりした場所である。

オストログスキ



Żelazowa Wola ジェラゾヴァ・ヴォラ(ショパンの生家)

ワルシャワから西へ60キロ。一日中居たくなる場所だった。
日曜日にはピアノコンサートが開かれる。聴衆は部屋の中で演奏さ
れるピアノの音を中庭で窓越しに聴く。

ジェラゾヴァ・ヴォラ



Pałacu Krasińskich クラシンスキ宮殿(ショパン家のサロン)

ショパンが17歳(1827年)からワルシャワを離れる1830年まで
家族と住んだ家。生涯で2曲しか作らなかったピアノ協奏曲はこの
部屋で作られた。現在はワルシャワ美術大学の校舎となっている。


クラシンスキ  クラシンスキ2



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